2012年11月13日火曜日

三浦校長 遠征報告



三浦校長から遠征報告が届きました。
10月17日から11月6日まで遠征トレーニングをされてきた校長の生の声です!



【三浦校長 ロブチェイースト(20121017日~116日) 報告】

 

ヒマラヤの高所では現地のシェルパでさえ高山病にやられることもある。

もっとも我々はときとして3000㍍あたりで苦しむのだが、シェルパの若者たちも6000

㍍を越えるあたり苦しんだりする。今回の遠征でもやられた。

ナムチェ3400㍍からディンボチェ(4300㍍)の間には我々親子を苦しめる高所悪魔が

いるらしい。この20年近く、この標高の同行程で毎度のように下痢、風邪などの体調

不良におびやかされ続けている。

不思議なことに昨年(2011年)のメラピークでは、いきなり4000㍍あたりまでヘリコ

プターで行ってからの登山活動で、6400㍍のメラピークの山頂まで登ることができた

が、このときは何の高山病も出なかった。やはりナムチェ⇔ディンボチェあたりが、

どうも怪しい。

今回も気を付けたつもりが、まず左奥歯が痛みはじめた。左はまだ大丈夫だと思い、

今回の遠征後に札幌の歯科医(藤森先生)にゆっくり治してもらうつもりで、右奥歯

の治療だけを出発前にお願いしたけど、それが急に疼き、痛みはじめた。3昼夜、痛

みでろくに食事を噛むことが出来ない。

人にはヒマラヤなどの高所・極地へ行くときは、まず歯を治してからといっておきな

がら、自分自身がこんな有り様だ。幸いなことにナムチェにシェルパのおばあさんが

やっている歯医者がいるというので、日曜日の10時の予約で行ってみた。

ナンタルことか、豪太も含めて当隊のメンバーが8人くらいゾロゾロと野次馬とな

り、狭い部屋に入り込んで、カメラなどを取り出して待っている。診療所のすぐ5

メートルほどの登ったところに小さなヒンズー教のお寺があったが、そこをネパール

山岳兵の楽団がラッパや太鼓などでドンかチャチャ、うるさく治療院が振動するよう

な調子はずれの音楽隊の演奏が響く。

これは抜くしかないね~、とおばあさん先生。助手のシェルパ…(皆にいわせると、

この人物が一番不潔そうであったが)に押さえつけられ、本当はシェルパならこのま

ま抜歯するのだけど、日本人やヨーロッパの人たちは「痛み」に弱いから、麻酔の

チューシャをしてあげるよ、と言いながらチクリとチューシャを2回ほどされた。ド

ンドコと太鼓やらラッパの音が響くなか、気が付いたら、「抜けましたよ」と痛んで

いた奥歯をひらひら見せてくれた。

5日間、抗生物質の薬を一日3回分、感染症予防にと用意してくれたが、今回のチー

ムドクター大城和恵先生が私たちにもあります、というので日本から持参した薬を服

用することにした。

この奥歯と、そして暖かい日本から急激に寒いヒマラヤの高所へ直行したこと、さら

に疲労で、私はフラフラになって、ナムチェで定宿にしているサクラロッジへ戻っ

た。さほど熱は出ないものの身体がだるくてしょうがない。

歯の治療で1日余分にナムチェで休んでの出発。だけど急な登りでは、すぐにドキド

キ息切れがする。その日、およそ8時間の行程で標高3600㍍から4000㍍へむけての

キャラバンであったが、不整脈が5回でた。

それから5日間、毎日のように苦しくなりかけると、心臓が空回りして不整脈とな

る。大城先生が脈をとったり、バルスオキシメーターで測ったり、休んで水分補給…

まめにやってくれた。そのおかげで、3~5分ぐらいで収まる。これまでの遠征やト

レーニング登山でもたまに出ていた不整脈であるが、今回は頻繁におこる。

だがこのおかげで、一応今回の目標であったロブチェイースト(6119㍍)の登頂を最

終的に諦めることにした。ともかく早めに日本に戻り、手術をしよう。

今まで、東京で色々な心臓負荷テストを受けたが、一度も不整脈は出ず、先生方も、

まあ手術なしでも大丈夫でしょう…とおっしゃってくれた。しかし、やはり高所で、

疲れ、虫歯、風邪などが一緒になると、下界ではあり得ない症状が出る。

今回は、これらの症状がでてくれたおかげで手術の決心がついた。早速、前回2008

の遠征前に手術をしていただいた土浦協同病院の家坂先生へお願いする。

今回の遠征はこのようなわけで「成功」とは言えないが、来年のエベレスト本番へ向

けてすべきことに向き合うという、よい結果が出た。

 

***** 

 

おかげさまで、無事帰国できました。出発前に不安だったことの幾つかが解決されま

した。

それは心臓について、そして今後のエベレスト登頂への具体的なスケジュール、行

程、タクティックスなど、80歳で確実に登頂できる方式、そして無事に帰ってこれる

という手段。今までのエベレスト登頂の方式よりもかつてのヒラリー、テンジン、植

村直己、田部井淳子さんたちのやっていた方法、そして私達が1970年にエベレスト大

滑降のときのやり方。古きを尋ね、新しい可能性を見出す。

80歳のエベレスト、私自身の夢の希望の軌跡を確実なステップとして刻むために、必

要とされる発見が今回のロブチェイースト遠征にありました。ここにご報告申し上げ

ます。

20121110日 三浦雄一郎
 
 




 

2012年11月9日金曜日

11月6日 三浦校長 遠征トレーニング終えられ帰国


2012年11月6日早朝、三浦校長、そして遠征隊の皆さんが無事に帰国されました。
不整脈を発症されたため予定より少し早い帰国となりましたが、来年のエベレスト挑戦へむけての体調確認と戦略作りの基盤が出来たということで、とても有意義なトレーニング遠征だったようです。
今後は国内で、来年へ向けての治療やトレーニングに励まれます。

トレーニング遠征は終わりましたが、今後も校長の様子をお伝えしていきたいと思っているので、引き続き一緒に校長を応援していきましょう!



11月2日


11月2日 8:00ナムチェ(3300m)出発→17:50ルクラ(2800m)到着

《三浦豪太さん遠征日記より》


今日が最後の歩きだ。

1019日にトレッキングを始めて以来、2週間以上も毎日歩いている。幸せな事だ。しかし毎日移動の生活は落ち着かないし、洗濯もたまった(着替えは二枚しかないが)。明日からホテルでゆっくりできることを考えると、心が少しはやる。

町の中を通ってナムチェを抜けると、そこには最新の登山具が売っている店がある。東京の山屋さんでも見ない高級高所靴が東京で買う半額で売っていたり、最新のギアがそろっている。一同、そこで品物を見ていると、ナムチェを出るところには9時近くなっていた。

谷に降りると、すっかり春である。暦では十分に秋か冬なのだが、寒いロブチェBCから来た事を考えると、まるで季節を逆行しているようだ。

昼食のWater Fall Lodgeの脇にはその名の通り滝があり、目の前にはタムセルクがある。トレッキングに向かう時も僕はここがお気に入りの場所であるが、お昼を食べるのは初めてだ。

テーブルには大きく「ナムチェまで4時間、ルクラまで4時間」と書いてある。ここはルクラとナムチェの中間地点なのだ。

日差しが暖かく、昼食を食べたら思わず眠ってしまった。

今日の行程は距離てきには今回のトレッキングで一番長い。13時にはでないと、日が暮れてしまうという事で、昼寝していたお父さんを起こし、出発する。

そこから1時間もすると、最初に泊ったパクディンに着く。そこには村口さんとそのお知り合いの方がいた。

再会を祝してお茶を飲むが、おちおちしていると夕暮れまでルクラにたどり着かない。別れを惜しみつつここから一路ルクラに向かう。

今日は金曜日、明日はバザールがある土曜日であるせいか、頻繁にヤック、ゾッキョ、ポーターとすれ違う。狭い橋や崖等はすれ違えないので、待たなければいけない。まるでラッシュアワーだ。そのため、パクディンを過ぎると旧道を歩くことにした。僕はこれまで10回以上、この街道を歩いた事があるが、今回歩いたその旧道は初めてだ。いつの間にかパクディンからガッドという村に着いていた。

最後、タラコシ川からルクラに向かう上り坂、お昼を食べ過ぎたのか、おならが止まらない。悪いと思い、列を離れおならをするのだが、最後を歩く三戸呂君にはどうしてもかかってしまう。

すると、ルクラに近づくころになると、三戸呂君がふらふらしている。

シェルパは「豪太のおならで三戸呂がひどく弱っている」といった。

これまでおならに定評がある僕だが、それほどの威力であったとは、と三戸呂君に悪く思った。

聞いてみると、それとは関係なくお昼頃から具合が悪く、下痢と嘔吐を繰り返していたという。しかし、みんなには僕のおならによって、三戸呂君のコンディションを著しく損ねたという事になってしまい、僕のおなら伝説をひとつ増やすことになった。

ルクラにつくともう夜だった。

みんなふらふらになり、いつもの定宿、ナワヨンデンさんの「Holliday Lodge」に入る。

夜はシェルパが腕をふるった焼き鳥、フライドチキン、チキンソテー(鶏を一匹さばいたらしい)がふるまわれ、最後には「See You Again In 2013」と書いたケーキが出てきた。その気持ちに感謝しながらトレッキングの最後を閉じた。




 
 
三浦校長、そして遠征に行かれた皆さんお疲れ様でした!
無事にトレーニングを終えられ、とても嬉しいです。
最後まで気をつけて帰ってきてくださいね。


11月1日



11月1日 9:00デボチェ(3900m)出発→15:30ナムチェ(3300m)到着


《三浦豪太さん遠征日記より 》


朝食を食べた後、田渕先生からお父さんにモデルの要請があった。

デボチェの朝はエベレストやアマダブラムに日が遮られ日が出るのが遅い。そのため朝830分からスタンバイし絵を描き始めたのだが、絵具が凍って絵描きがままならなかった。

これまでもカラパタールで同じ苦労をしてこられたのだなと思った。

9時にタンボチェまでの坂を登り始める。20分もしないうちにタンボチェに着くと、貫田さん、大城先生、三戸呂君がバティ(トレッカー小屋)のバルコニーで優雅にコーヒーを飲んでいた。

香りがとてもいい。ドリップコーヒーである。僕達もお願いした。しばらくするとコーヒーと一緒に焼き立てのアップルパイが出てきた。ここまで来ると都会そのものだ。

エベレスト街道沿いには最近、いたるところでベーカリーがオープンしている。

一番標高が高い所で食べたベーカリーはエベレストベースキャンプだから、その人気の高さがうかがえる。

今日の行程はデボチェからナムチェだが、その間にタンボチェ、プンキテンガ、ギャンズマ、ナムチェにベーカリーがあった。ようはすべての村にベーカリーがあり、実はそれぞれのベーカリーでパンを食べるのが僕の楽しみの一つである。

タンボチェでゆっくりとした時間を過ごした後、プンキテンガに降りる。

「テンガ」というのは来る時立ち寄った川沿いの村、ポルツェテンガと同じ「テンガ」が最後に着く、その意味がようやくわかった。「川沿い」という意味である。

丘の上にあるタンボチェからプンキテンガまで標高差にして600m、お父さんはものすごいスピードで下り始めた、ついて行くのがやっとである。しかしそれよりももっと驚いたのはそれに、田渕先生がついてくることである。

田渕先生は山歩きを5年前、僕と知り合ってから始めた。最初にあったころはしょっちゅう転んでいたのだが、それから7回にわたりヒマラヤに足を運び足腰が鍛えられたのか、そのスピードに驚いた。結局、1時間程でこの高度差は降りてきた。

ここから今度はナムチェに向かって登り返しだ。ゆっくりと歩く

気がついたのは、一昨日、ロブチェイーストのキャンプを出て以来、父の不整脈が見られないという事だ。これまで不整脈のパターンを見つけようと、運動負荷や水分補給等を考えていたのだが、単純に高度を下げると不整脈が出なくなるのかも知れない。

結局、今日の登りもいいペースで登りきった

ナムチェは大都会である。ナムチェには電気、水道、インターネットがある。停電が頻繁なカトマンズよりもむしろ電気事情はいいかもしれない。日記や医療データを送るのに常に電源を気にする僕にとって、ふんだんに使える電気は安心する。山にいるのに電気に依存している自分がかわいそうに思える時がある。

新生サクラロッジはダイニングも明るく大きく、それぞれの部屋にバストイレ付。空気もいいし、ここならカトマンズよりもゆっくり過ごせる。

しかし、明日はルクラに移動、最後の歩きだ。そうそうに寝る。

 
三浦校長 田淵画伯
 
 
ナムチェには電気も水道もインターネットもあると知って驚きました。
山の上のベーカリー私も行ってみたいです!

10月31日



10月31日 9:55ディンボジェ(4300m)出発→15:00デボチェ(3900m)到着


《三浦豪太さん遠征日記より》


ディンボチェの朝はさわやかであった。

寝袋も暖かいし、いつまでも眠っていられる。

昨日まであれほど寒かったベースキャンプが嘘のようである。シェルパによると、今年は冬が来るのが早いと言ったが、高度を下げるとまだまだ秋なのだ。

今日はゆっくりディンボチェからデボチェに降りるだけなのでゆっくりとしたくを整え出発する。

ディンボチェとデボチェ、とても似ている名前なのでややこしい。こっちの地名の最後にナムチェ、タンボチェ、デボチェ、ディンボチェ、ロブチェ等最後に「チェ」がつく地名が多い。以前、サーダーの古参のラクパテンジンさんに「チェ」の意味を聞いてみた事がある。それは昔、インドから「グル・リンポチェ」という偉いお坊さんが空を飛んできて、この地方にチベット仏教を広めたことがあるそうだ。この時、グル・リンポチェがつけた足跡に「チェ」という名前をつけたというのだ。

そういえばチェのつくところには寺院がある。僕達はいわばグル・リンポチェの足跡を追っているんだ。

今日の目的地である、デボチェはタンボチェ寺院のすぐ下にあり、元々尼寺があることで有名だ。しかし、エベレスト街道沿いでタンボチェ寺院付近に泊る人が多くなり、そこが寺院であることからトレッカーのための宿は必然的に限られてしまい、キャンプ地が飽和状態となってしまった。そこでそれまでひっそりとタンボチェの影になっていたデボチェが注目され、今ではトレッカー宿が最近立ち並んできた。

今晩泊る宿RivenDell Lodgeも最近できた宿でなんと水洗トイレ、電気、そしてWIFIまで完備している。

ここでこれまでの日記をまとめていると、ダヌルが会いに来た。何と田渕先生も降りてきているそうだ。

田渕先生はナムチェで別れて以来だ。本来、父の調子が良ければカラパタールで再会を約束していたが、そこには行けず、メッセージをシェルパに手渡してロブチェイーストのBC

直接いくようにと伝えようと思っていた。しかしそれもうまく伝わっておらず、心配していたところだった。

田渕先生はあれから5日間、マイナス15度のカラパタールの麓でエベレストの絵を描いていたという。手も筆も凍りながら、見事に作品を仕上げてきたその芸術魂に脱帽である。

夜は再会を祝った後、ゆっくり休んだ。




田淵画伯
 
 
少しずつ下山を始めていらっしゃるようです。
気をつけて帰ってきてくださいね!

 


10月30日


10月30日  三浦雄一郎 ロブチェBC→ディンボチェ
     三浦豪太  8:45ロブチェBC出発→コンマラ→17:50ディンボチェ到着

《三浦豪太さん遠征日記より》


ロブチェイーストの登山を断念し、昨日決まったのが三浦雄一郎をはじめ、大城先生、貫田さんが直接ディンボチェに向かい、五十嵐さん、三戸呂君、僕が来年の高度順化プログラムのためにコンマラ、及びポカルデ氷河を偵察に行くというものだ。

コンマラ峠を通るという事は5500mの峠を越える事になる。この峠はクンブ氷河の谷とイムジャツェ谷を分ける峠だ。

目的地であるディンボチェはちょうどその分岐点部分にあるため、直接おりれば3時間程度でつくが、コンマラを通ると三角形の2点を通りさらに大きな標高差のあるコンマラ峠を越えなければいけない。

しかし、以前から五十嵐さんと僕はこのトレッキングルートに注目していて、父から偵察を命じられた時、ちょうどいい機会だと思いむしろ嬉しかった。

ロブチェ側からコンマラ峠に行くためにはまず、クンブ氷河を越えなければいけない。氷河は複雑なモレーン帯でルートを探すのは難しいと思っていた。同行してくれるサーダーのギャルツェンもこのルートは初めてであったため、ルートを見つけるのに多少の不安があったが、意外にロブチェ方面に向かうとしっかりとしたルートが見つかった。

2時間もするとコンマラ峠の麓に辿り着く。

ここから700mもの高度差を登り反対側のイムジャツェの谷に向かわなければいけない。気合いをいれてパックランチを食べる。

ゆっくりとしかし確実に登るが、標高5000mを超えるあたりから、空気が希薄になるのが顕著に感じられるようになる。無理もない、高度順化としてロブチェイーストに登ったのはハイキャンプの5300mまでだった。この峠はそれよりも200mも高い。

3時間もかけてやっと峠にたどり着く。そこには巨大なコバルトブルーの湖、ローツェ、ヌプツェ、アマダブラム、マカルー、イムジャツェが一望に見える。クンブ氷河側にはロブチェイースト、タオチェ、チョラツェ等が一望できた。僕がエベレスト街道で初めて見ることができるコンビネーションであった。

ここから尾根伝いにポカルデ方面に登る。30分ほどサーダーのギャルツェンと登ると氷河に出る事が出来た。滑らかなマシュマロのような氷河の間にはクレヴァスが開いているが、氷河の上部にはだれかが立てた竹棒が立っている。おそらく僕達と同じ目的(スキー、スノーボード)のために来た人が立てたのであろう。

十分にスキーがすることができる事を確認して、下山活動を開始する

湖まではわずか標高差にして100mほど降りる。湖畔はまるで避暑地のようなたたずまいで水も綺麗でキャンプ地としては最高だ。しかし高度計をみるとそこは5400m、軽井沢の別荘とはいかない高度である。

来年のエベレスト高度順化に使えるかと言ったら、ディンボチェの標高が4300mとして、少なくても中間キャンプをさらに二つ作らなければいけないだろう。それぞれのキャンプ候補地を探しながら降りると、ディンボチェに着くころには暗くなっていた。

来年のいい下見ができた。
 
 


 

10月29日



10月29日 7:30~12:30 高度順化


《三浦豪太さん遠征日記より》


ロブチェイースト、ハイキャンプに向かっている最中、父に二回の不整脈を記録した。父の不整脈は急に心拍数が上がる心房頻拍といわれているもので、これまで心拍数が1分間に110回程度だったのものが急に150160回になる。こうなると急激に心拍数が上がってしまい心臓が空打ち(空回り)し、体に十分に血流量を送ることができなくなってしまう。発作が発生すると、父はその場から動くことができず、心房頻拍が治まるまで5分程度その場から動く事が出来なくなってしまう。不整脈はルクラからロブチェベースキャンプまでのキャラバンの最中、頻繁に記録されていた。

こうした不整脈の発作は高度な登攀技術を要するロブチェイースト峯において危険を伴い、継続的な不整脈の発作が続いたため、このまま高所でのトレーニングは困難と判断、最高到達点をロブチェイースト、ハイキャンプ(5300m)として1030日に下山活動を開始した。

幸いなことに、今回は国際山岳医であり、循環器内科専門である大城和恵先生が心電計、心拍計を用いて詳細に記録をとり、その状況を把握、心房頻拍の治療についても前向きで具体的な治療法を頂いた。これらは日本に帰国後、専門的な治療により十分完治するものであるという事だ。そのため日程を早め日本に帰国することにした。

今回の遠征の最重要課題は三浦雄一郎、80歳のコンディションを知ることである。そういった意味では今のタイミングで問題が明確になり、十分に来年のエベレスト本番まで時間があり対応が可能であるという事は不幸中の幸いだともいえる。

三浦雄一郎本人も治療に前向きに取り組む意思がある。さらに今回ロブチェイースト峯の登頂には至らなかったが、中止を決めた直後、来年のエベレストに向け、もしネパール側に登山活動が移った際の高度順化計画について斬新な行動予定を発案した。

それはロブチェの対岸にある山、コンマラ峠とその峰にあるポカルデ山に横たわる氷河で高度順化を兼ねてスキーを行なうというものだ。

4日前、コンマラをディンボチェからアプローチした時、氷河や雪は見受けられなかったがそれは南側からアプローチしたためであった。

今回のロブチェイーストを断念した理由のもう一つは、ポカルデ山に横たわる氷河があまりにもスキーには魅力的であり、現在の三浦雄一郎の状態で危険を伴うロブチェイーストを登るよりも、来年のエベレストの楽しい高度順化のためのリサーチをしたほうが有益だと考えた。

そのため、明日は2グループに分け、三浦雄一郎、大城先生、貫田さんは直接ディンボチェに向かい、五十嵐さん、三戸呂君、僕とで再度、コンマラに登りディンボチェに抜ける事になった。

 
三浦校長を囲んで・・・!

五十嵐和哉さん、三浦校長、三浦豪太さん
 
 
三浦校長の不整脈が記録されたため、今回のトレーニング遠征は予定より少し早く終了することになりました。
しかし、来年のエベレスト挑戦のための新たな目標や課題が見つかったということで、三浦校長のどこまでも諦めず、前向きな姿に改めて心を打たれました。
校長が無事に治療を終えられ、来年のエベレストに挑戦できるように願っています。