2013年4月1日月曜日

三浦校長 エベレストへ向け出発



3月29日の未明に三浦校長がエベレストへ向けて出発されました。
私たちPRgirlsを含め、首都圏9キャンパス(約100名)の生徒が羽田空港に集合し、三浦校長の無事登頂を願ってセレモニーを開催しました。

 
最後に校長は「80歳でチャレンジできる目標があるというのは幸せで、それも世界最高峰のエベレストであることがすごく嬉しい。エベレストへ向かって高鳴る希望の鼓動を胸に登り続けたいと思う。」とコメントされ、私たちクラーク生には「エベレスト登頂という夢に向かってがんばるので、みなさんも大きな夢に向かって挑戦していって!」というメッセージを送ってくださりました。
4月から新しい学年になります。
私たちも三浦校長に負けないくらい大きな夢・目標をもって、この1年が輝いたものになるようにがんばりたいですね!
三浦校長含め、遠征隊のみなさんが無事登頂され、帰国されることを待っています。



下記のサイトにも三浦校長の様子がアップされています。ぜひご覧ください。


三浦雄大さん・三浦校長・三浦豪太さん

東京キャンパスから三浦校長へプレゼント

横浜青葉キャンパスPRgirls インタビュー
 
三浦校長を囲んでクラークポーズ!

出発される三浦校長を見送りました

2013年1月19日土曜日

三浦校長 手術報告


三浦校長が1月15日に二度目の心臓手術を受けられました。
その手術の報告が届いたのでお知らせします。



三浦雄一郎 カテーテルアブレーション手術報告


1月15日三浦雄一郎は土浦協同病院にて、昨年11月に引き続き、2度目の心房頻拍、不整脈治療を目的とした心臓カテーテルアブレーション手術を行いました。執刀医は過去に三浦雄一郎の手術を担当した家坂義人先生とそのアブレーションチームです。

心臓カテーテルアブレーション手術は鼠蹊部と肩からカテーテルを挿入し血管を伝い心臓内部に入り不整脈をおこしている箇所を電気的に焼勺する手術です。

08年以前に三浦雄一郎は「心房細動」(心房が細かく震える)不整脈治療の為アブレーション手術を行いました。2度にわたる手術の結果、心房細動は完治し75歳エベレスト登頂に繋がりました。

今回の手術の目的は「多源性心房頻拍」と言う不整脈治療の為に行いました。

「心房頻拍」とは多数の起源から心房興奮が起こり、心拍数が不規則かつ早くなり血圧低下や心臓が「空打ち」することで、目眩や行動不能に陥ります。以前にも確認されていた心房頻拍ですが、最近になりその頻度が増し、前回のロブチェイースト遠征では一日に2〜3度記録され、その度に行動が制限されたため、登頂は断念し帰国後の昨年11月14日に最初の手術を行いました。

家坂先生は当初、心臓内部で多数の異常興奮箇所を確認しそれが期外収縮(不規則に心臓を収縮させる)ことから、これらが心房頻拍に繋がるのではないかと考え期外収縮を目的としたアブレーションを行いました。この処置により、期外収縮は従来の10〜5分の一になり期外収縮による心臓の負担は軽減しました。

しかし、その後、運動後や発熱を伴った体調不良時に毎分160/分程度の規則的な心房頻拍が再び確認された事から、この度、2度目の心房頻拍を目的とした手術を行う事となりました。

今回は期外収縮ではなく、心房頻拍ないし上室性頻拍をターゲットとして、アブレーションを実施しました。以前のアブレーション時に誘発された頻拍に、「房室結節回帰性頻拍」があったことが家坂先生の記憶に残っており、同頻拍の誘発を行なったところ、予想が的中し早々に、同頻拍が誘発され、家坂先生のガッツポーズもみられました。

 正常心拍は、心房内の洞結節というところで電気刺激が生み出され、それが房室結節を経由して心室に伝わり、心房・心室を順に興奮させて生み出されます。「房室結節回帰性頻拍」は心房から心室への刺激伝導路が二重になっていて、心房期外収縮に続いて電気刺激が二重伝導路の双方を旋回し、心房・心室に160/分を超すような頻度で伝わり頻拍(早い脈)を引き起こします。今回の手術は、二重伝導路の一方である、不必要な“遅伝導路”を焼勺して電気刺激の旋回を防ぎ、同様の頻拍が二度と起きないような処置を行いました。

現在、経過観察中ですが、家坂先生はこの手術に手応えを感じていると所見を述べられ、また三浦雄一郎自身も手術後「心臓が軽くなった」と体感しております。

今後は経過を見ながら、運動負荷試験、低酸素負荷試験や国内合宿を経て万全の体制を作り2ヶ月後のエベレストに向かいます。

三浦豪太

 
 
 
手術が無事成功し、三浦校長も元気になられたようでとても嬉しいです。
エベレスト遠征まで残り2ヶ月。
元気に三浦校長が出発されることを祈っています!
校長がんばってください☆

2012年11月13日火曜日

三浦校長 遠征報告



三浦校長から遠征報告が届きました。
10月17日から11月6日まで遠征トレーニングをされてきた校長の生の声です!



【三浦校長 ロブチェイースト(20121017日~116日) 報告】

 

ヒマラヤの高所では現地のシェルパでさえ高山病にやられることもある。

もっとも我々はときとして3000㍍あたりで苦しむのだが、シェルパの若者たちも6000

㍍を越えるあたり苦しんだりする。今回の遠征でもやられた。

ナムチェ3400㍍からディンボチェ(4300㍍)の間には我々親子を苦しめる高所悪魔が

いるらしい。この20年近く、この標高の同行程で毎度のように下痢、風邪などの体調

不良におびやかされ続けている。

不思議なことに昨年(2011年)のメラピークでは、いきなり4000㍍あたりまでヘリコ

プターで行ってからの登山活動で、6400㍍のメラピークの山頂まで登ることができた

が、このときは何の高山病も出なかった。やはりナムチェ⇔ディンボチェあたりが、

どうも怪しい。

今回も気を付けたつもりが、まず左奥歯が痛みはじめた。左はまだ大丈夫だと思い、

今回の遠征後に札幌の歯科医(藤森先生)にゆっくり治してもらうつもりで、右奥歯

の治療だけを出発前にお願いしたけど、それが急に疼き、痛みはじめた。3昼夜、痛

みでろくに食事を噛むことが出来ない。

人にはヒマラヤなどの高所・極地へ行くときは、まず歯を治してからといっておきな

がら、自分自身がこんな有り様だ。幸いなことにナムチェにシェルパのおばあさんが

やっている歯医者がいるというので、日曜日の10時の予約で行ってみた。

ナンタルことか、豪太も含めて当隊のメンバーが8人くらいゾロゾロと野次馬とな

り、狭い部屋に入り込んで、カメラなどを取り出して待っている。診療所のすぐ5

メートルほどの登ったところに小さなヒンズー教のお寺があったが、そこをネパール

山岳兵の楽団がラッパや太鼓などでドンかチャチャ、うるさく治療院が振動するよう

な調子はずれの音楽隊の演奏が響く。

これは抜くしかないね~、とおばあさん先生。助手のシェルパ…(皆にいわせると、

この人物が一番不潔そうであったが)に押さえつけられ、本当はシェルパならこのま

ま抜歯するのだけど、日本人やヨーロッパの人たちは「痛み」に弱いから、麻酔の

チューシャをしてあげるよ、と言いながらチクリとチューシャを2回ほどされた。ド

ンドコと太鼓やらラッパの音が響くなか、気が付いたら、「抜けましたよ」と痛んで

いた奥歯をひらひら見せてくれた。

5日間、抗生物質の薬を一日3回分、感染症予防にと用意してくれたが、今回のチー

ムドクター大城和恵先生が私たちにもあります、というので日本から持参した薬を服

用することにした。

この奥歯と、そして暖かい日本から急激に寒いヒマラヤの高所へ直行したこと、さら

に疲労で、私はフラフラになって、ナムチェで定宿にしているサクラロッジへ戻っ

た。さほど熱は出ないものの身体がだるくてしょうがない。

歯の治療で1日余分にナムチェで休んでの出発。だけど急な登りでは、すぐにドキド

キ息切れがする。その日、およそ8時間の行程で標高3600㍍から4000㍍へむけての

キャラバンであったが、不整脈が5回でた。

それから5日間、毎日のように苦しくなりかけると、心臓が空回りして不整脈とな

る。大城先生が脈をとったり、バルスオキシメーターで測ったり、休んで水分補給…

まめにやってくれた。そのおかげで、3~5分ぐらいで収まる。これまでの遠征やト

レーニング登山でもたまに出ていた不整脈であるが、今回は頻繁におこる。

だがこのおかげで、一応今回の目標であったロブチェイースト(6119㍍)の登頂を最

終的に諦めることにした。ともかく早めに日本に戻り、手術をしよう。

今まで、東京で色々な心臓負荷テストを受けたが、一度も不整脈は出ず、先生方も、

まあ手術なしでも大丈夫でしょう…とおっしゃってくれた。しかし、やはり高所で、

疲れ、虫歯、風邪などが一緒になると、下界ではあり得ない症状が出る。

今回は、これらの症状がでてくれたおかげで手術の決心がついた。早速、前回2008

の遠征前に手術をしていただいた土浦協同病院の家坂先生へお願いする。

今回の遠征はこのようなわけで「成功」とは言えないが、来年のエベレスト本番へ向

けてすべきことに向き合うという、よい結果が出た。

 

***** 

 

おかげさまで、無事帰国できました。出発前に不安だったことの幾つかが解決されま

した。

それは心臓について、そして今後のエベレスト登頂への具体的なスケジュール、行

程、タクティックスなど、80歳で確実に登頂できる方式、そして無事に帰ってこれる

という手段。今までのエベレスト登頂の方式よりもかつてのヒラリー、テンジン、植

村直己、田部井淳子さんたちのやっていた方法、そして私達が1970年にエベレスト大

滑降のときのやり方。古きを尋ね、新しい可能性を見出す。

80歳のエベレスト、私自身の夢の希望の軌跡を確実なステップとして刻むために、必

要とされる発見が今回のロブチェイースト遠征にありました。ここにご報告申し上げ

ます。

20121110日 三浦雄一郎
 
 




 

2012年11月9日金曜日

11月6日 三浦校長 遠征トレーニング終えられ帰国


2012年11月6日早朝、三浦校長、そして遠征隊の皆さんが無事に帰国されました。
不整脈を発症されたため予定より少し早い帰国となりましたが、来年のエベレスト挑戦へむけての体調確認と戦略作りの基盤が出来たということで、とても有意義なトレーニング遠征だったようです。
今後は国内で、来年へ向けての治療やトレーニングに励まれます。

トレーニング遠征は終わりましたが、今後も校長の様子をお伝えしていきたいと思っているので、引き続き一緒に校長を応援していきましょう!



11月2日


11月2日 8:00ナムチェ(3300m)出発→17:50ルクラ(2800m)到着

《三浦豪太さん遠征日記より》


今日が最後の歩きだ。

1019日にトレッキングを始めて以来、2週間以上も毎日歩いている。幸せな事だ。しかし毎日移動の生活は落ち着かないし、洗濯もたまった(着替えは二枚しかないが)。明日からホテルでゆっくりできることを考えると、心が少しはやる。

町の中を通ってナムチェを抜けると、そこには最新の登山具が売っている店がある。東京の山屋さんでも見ない高級高所靴が東京で買う半額で売っていたり、最新のギアがそろっている。一同、そこで品物を見ていると、ナムチェを出るところには9時近くなっていた。

谷に降りると、すっかり春である。暦では十分に秋か冬なのだが、寒いロブチェBCから来た事を考えると、まるで季節を逆行しているようだ。

昼食のWater Fall Lodgeの脇にはその名の通り滝があり、目の前にはタムセルクがある。トレッキングに向かう時も僕はここがお気に入りの場所であるが、お昼を食べるのは初めてだ。

テーブルには大きく「ナムチェまで4時間、ルクラまで4時間」と書いてある。ここはルクラとナムチェの中間地点なのだ。

日差しが暖かく、昼食を食べたら思わず眠ってしまった。

今日の行程は距離てきには今回のトレッキングで一番長い。13時にはでないと、日が暮れてしまうという事で、昼寝していたお父さんを起こし、出発する。

そこから1時間もすると、最初に泊ったパクディンに着く。そこには村口さんとそのお知り合いの方がいた。

再会を祝してお茶を飲むが、おちおちしていると夕暮れまでルクラにたどり着かない。別れを惜しみつつここから一路ルクラに向かう。

今日は金曜日、明日はバザールがある土曜日であるせいか、頻繁にヤック、ゾッキョ、ポーターとすれ違う。狭い橋や崖等はすれ違えないので、待たなければいけない。まるでラッシュアワーだ。そのため、パクディンを過ぎると旧道を歩くことにした。僕はこれまで10回以上、この街道を歩いた事があるが、今回歩いたその旧道は初めてだ。いつの間にかパクディンからガッドという村に着いていた。

最後、タラコシ川からルクラに向かう上り坂、お昼を食べ過ぎたのか、おならが止まらない。悪いと思い、列を離れおならをするのだが、最後を歩く三戸呂君にはどうしてもかかってしまう。

すると、ルクラに近づくころになると、三戸呂君がふらふらしている。

シェルパは「豪太のおならで三戸呂がひどく弱っている」といった。

これまでおならに定評がある僕だが、それほどの威力であったとは、と三戸呂君に悪く思った。

聞いてみると、それとは関係なくお昼頃から具合が悪く、下痢と嘔吐を繰り返していたという。しかし、みんなには僕のおならによって、三戸呂君のコンディションを著しく損ねたという事になってしまい、僕のおなら伝説をひとつ増やすことになった。

ルクラにつくともう夜だった。

みんなふらふらになり、いつもの定宿、ナワヨンデンさんの「Holliday Lodge」に入る。

夜はシェルパが腕をふるった焼き鳥、フライドチキン、チキンソテー(鶏を一匹さばいたらしい)がふるまわれ、最後には「See You Again In 2013」と書いたケーキが出てきた。その気持ちに感謝しながらトレッキングの最後を閉じた。




 
 
三浦校長、そして遠征に行かれた皆さんお疲れ様でした!
無事にトレーニングを終えられ、とても嬉しいです。
最後まで気をつけて帰ってきてくださいね。


11月1日



11月1日 9:00デボチェ(3900m)出発→15:30ナムチェ(3300m)到着


《三浦豪太さん遠征日記より 》


朝食を食べた後、田渕先生からお父さんにモデルの要請があった。

デボチェの朝はエベレストやアマダブラムに日が遮られ日が出るのが遅い。そのため朝830分からスタンバイし絵を描き始めたのだが、絵具が凍って絵描きがままならなかった。

これまでもカラパタールで同じ苦労をしてこられたのだなと思った。

9時にタンボチェまでの坂を登り始める。20分もしないうちにタンボチェに着くと、貫田さん、大城先生、三戸呂君がバティ(トレッカー小屋)のバルコニーで優雅にコーヒーを飲んでいた。

香りがとてもいい。ドリップコーヒーである。僕達もお願いした。しばらくするとコーヒーと一緒に焼き立てのアップルパイが出てきた。ここまで来ると都会そのものだ。

エベレスト街道沿いには最近、いたるところでベーカリーがオープンしている。

一番標高が高い所で食べたベーカリーはエベレストベースキャンプだから、その人気の高さがうかがえる。

今日の行程はデボチェからナムチェだが、その間にタンボチェ、プンキテンガ、ギャンズマ、ナムチェにベーカリーがあった。ようはすべての村にベーカリーがあり、実はそれぞれのベーカリーでパンを食べるのが僕の楽しみの一つである。

タンボチェでゆっくりとした時間を過ごした後、プンキテンガに降りる。

「テンガ」というのは来る時立ち寄った川沿いの村、ポルツェテンガと同じ「テンガ」が最後に着く、その意味がようやくわかった。「川沿い」という意味である。

丘の上にあるタンボチェからプンキテンガまで標高差にして600m、お父さんはものすごいスピードで下り始めた、ついて行くのがやっとである。しかしそれよりももっと驚いたのはそれに、田渕先生がついてくることである。

田渕先生は山歩きを5年前、僕と知り合ってから始めた。最初にあったころはしょっちゅう転んでいたのだが、それから7回にわたりヒマラヤに足を運び足腰が鍛えられたのか、そのスピードに驚いた。結局、1時間程でこの高度差は降りてきた。

ここから今度はナムチェに向かって登り返しだ。ゆっくりと歩く

気がついたのは、一昨日、ロブチェイーストのキャンプを出て以来、父の不整脈が見られないという事だ。これまで不整脈のパターンを見つけようと、運動負荷や水分補給等を考えていたのだが、単純に高度を下げると不整脈が出なくなるのかも知れない。

結局、今日の登りもいいペースで登りきった

ナムチェは大都会である。ナムチェには電気、水道、インターネットがある。停電が頻繁なカトマンズよりもむしろ電気事情はいいかもしれない。日記や医療データを送るのに常に電源を気にする僕にとって、ふんだんに使える電気は安心する。山にいるのに電気に依存している自分がかわいそうに思える時がある。

新生サクラロッジはダイニングも明るく大きく、それぞれの部屋にバストイレ付。空気もいいし、ここならカトマンズよりもゆっくり過ごせる。

しかし、明日はルクラに移動、最後の歩きだ。そうそうに寝る。

 
三浦校長 田淵画伯
 
 
ナムチェには電気も水道もインターネットもあると知って驚きました。
山の上のベーカリー私も行ってみたいです!

10月31日



10月31日 9:55ディンボジェ(4300m)出発→15:00デボチェ(3900m)到着


《三浦豪太さん遠征日記より》


ディンボチェの朝はさわやかであった。

寝袋も暖かいし、いつまでも眠っていられる。

昨日まであれほど寒かったベースキャンプが嘘のようである。シェルパによると、今年は冬が来るのが早いと言ったが、高度を下げるとまだまだ秋なのだ。

今日はゆっくりディンボチェからデボチェに降りるだけなのでゆっくりとしたくを整え出発する。

ディンボチェとデボチェ、とても似ている名前なのでややこしい。こっちの地名の最後にナムチェ、タンボチェ、デボチェ、ディンボチェ、ロブチェ等最後に「チェ」がつく地名が多い。以前、サーダーの古参のラクパテンジンさんに「チェ」の意味を聞いてみた事がある。それは昔、インドから「グル・リンポチェ」という偉いお坊さんが空を飛んできて、この地方にチベット仏教を広めたことがあるそうだ。この時、グル・リンポチェがつけた足跡に「チェ」という名前をつけたというのだ。

そういえばチェのつくところには寺院がある。僕達はいわばグル・リンポチェの足跡を追っているんだ。

今日の目的地である、デボチェはタンボチェ寺院のすぐ下にあり、元々尼寺があることで有名だ。しかし、エベレスト街道沿いでタンボチェ寺院付近に泊る人が多くなり、そこが寺院であることからトレッカーのための宿は必然的に限られてしまい、キャンプ地が飽和状態となってしまった。そこでそれまでひっそりとタンボチェの影になっていたデボチェが注目され、今ではトレッカー宿が最近立ち並んできた。

今晩泊る宿RivenDell Lodgeも最近できた宿でなんと水洗トイレ、電気、そしてWIFIまで完備している。

ここでこれまでの日記をまとめていると、ダヌルが会いに来た。何と田渕先生も降りてきているそうだ。

田渕先生はナムチェで別れて以来だ。本来、父の調子が良ければカラパタールで再会を約束していたが、そこには行けず、メッセージをシェルパに手渡してロブチェイーストのBC

直接いくようにと伝えようと思っていた。しかしそれもうまく伝わっておらず、心配していたところだった。

田渕先生はあれから5日間、マイナス15度のカラパタールの麓でエベレストの絵を描いていたという。手も筆も凍りながら、見事に作品を仕上げてきたその芸術魂に脱帽である。

夜は再会を祝った後、ゆっくり休んだ。




田淵画伯
 
 
少しずつ下山を始めていらっしゃるようです。
気をつけて帰ってきてくださいね!